2013年03月17日

統一教会のルーツをさがす旅。韓国の「祈祷院運動」の展開

最近面白い記事や報告をよく目にする。

今回は、韓国のペンテコステリズムによる「祈祷院運動」の展開の報告文であり、PDFの転載である。

読んでいただくとわかるが長い。(笑)

諦めずに読んでいくと実に面白いことが書いてある。韓国の場合、キリスト教と祈祷院は密接に繋がっているのだ。それは土着シャーマニズムとも関連してくる。統一教会の原点(ルーツ)を探るのに良い資料と思い、掲載した。

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2010/10/15 宗文研懇話会
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2010.10.15.(金) 南山宗教文化研究所懇話会

韓国のペンテコステリズムにおける「祈禱院運動」の展開

―キリスト教土着化論の考察―
報告:渕上恭子(FUCHIGAMI Kyoko)
はじめに―「祈禱院」とは何か

韓国のキリスト教界には、キリスト教を掲げてはいるが、教会でも教団でもない、「祈禱院(기도원:キドウォン)」と称される信仰集団がある。「祈禱院」は、韓国・朝鮮のプロテスタントの 120余年にわたる歴史の中で、教会の周辺に断続的に出現しながら独自の信仰形態を形成し、神秘主義的異端キリスト教(1)、北朝鮮起源の新興宗教(2)、ペンテコステ教会の祈禱場、シャーマン的女性牧会者による神癒を指し示すものへと変貌を遂げて今日に至っている。本報告において、韓国・朝鮮のキリスト教史に出現してきた「祈禱院」の類型を整理し、それらの「祈禱院」から発生してきた信仰運動が、韓国へのキリスト教の定着(土着化)をどのように方向づけてきたか考察してゆきたい。

1.韓国キリスト教の信仰形態の形成―大復興會運動と「祈禱院運動」

朝鮮(3)の地にプロテスタントが伝来したのは 1885 年のことであった(注:キリスト教が朝鮮に伝来して以来、カトリックは「天主教」、プロテスタントは「改新教」と呼び慣わされてきたが、今日に至ってプロテスタントは「基督教(キドッキョ)」と称されるようになった。これに倣って本報告では、プロテスタントを「キリスト教」と表記している)。
朝鮮のキリスト教史にあって、民族の受難の歴史を背景に、熱烈なリバイバル運動が展開されてきた背後で、「祈禱院」において神秘主義に傾倒した異端キリスト教が出現してきた。
朝鮮キリスト教史の表舞台で、民族の霊的救済を訴えるリバイバルの炎が燃え上がっていた一方で、「祈禱」では、亡国の不安と鬱憤を内向させながら、朝鮮の民俗宗教と巫俗信仰(シャーマニズム)(4)がくすぶり続けていた。
韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。2010/10/15 宗文研懇話会2

2.韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変遷

朝鮮時代も含めた韓国のプロテスタントの 120 余年の歴史において、「祈禱院」が出現してきた時期は 4回見受けられ、各々の時期によってその類型が移り変わってきているのが見て取れる。
「祈禱院」が出現した第一期は、1930 年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる、李龍道・黄國柱といった復興師達が現れた時期であった。
「祈禱院」の出現がみられた第二期は、1950 年代、朝鮮動乱によって北のキリスト教徒が南へ下り、韓国で北朝鮮起源のキリスト教系新興宗教が群生した時期であった。
「祈禱院」が出現してきた第三期は、1970 年代、ペンテコステ派キリスト教が韓国で急成長を遂げて空前の教会復興が成し遂げられ、信徒達の心霊復興のための道場として、教会付属の祈禱院が設立された時期であった。
そして「祈禱院」出現の第四期となったのが、1980 年代初頭から 1990 年代後半にかけて、ペンテコステ教会の周辺にシャーマン的女性院長が神癒を手がける「祈禱院」が簇生した時期であった。
韓末期から今日に至るまで、朝鮮民族の伝統宗教や民俗宗教が「祈禱院」にどのように投影されて、韓国キリスト教の信仰形態が形成されてきたのか。「祈禱院」から発生してきた「祈禱院運動」と称される信仰運動は、韓国・朝鮮の地へのキリスト教の土着化にあたって、いかなる問題が生じることを示唆してきたのか。韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変貌の足跡を辿りながら探ってゆきたい。

(1)第一期(1930 年代):神秘主義的異端キリスト教

1930 年代、日本の植民地支配下で国権が失われ、朝鮮教会が存亡の危機に瀕していた時、平壌を本拠地として、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」のはしりとなる、忘我状態に至る神人合一の法悦を説く神秘主義的キリスト教が出現してきた。それは李龍道、黄國柱といった復興師等によって創始された、「血分け教」と言われる異端キリスト教で[정행업1999:106-108]、両者の門下生であった「血分け師」(5)を介して、後の韓国のキリスト教系新興宗教に繰り返し出現してくることになった。
朝鮮のキリスト教史における「祈禱院運動」の出発点となったのは、1907 年に平壌の教会から起こった大復興會運動であったと考えられている。1907 年、朝鮮長老派の父と仰がれる吉善宙牧師をリーダーとして、平壌を中心に大復興會運動が起こり、リバイバルの波が朝鮮全土に波及していった。この大復興會運動は、亡国の渦中にあって絶望に打ちひしがれた民衆に、黙示録的な希望と力を与えた終末論的な信仰運動であった。
この 1907 年の第一のリバイバル運動に次いで、1930 年、メソジストの若い牧師である李龍道をリーダーとして全国的なリバイバル運動が起こった[閔庚培 1991:337-343,金동수 1994:78-79]。この第二のリバイバルは、神秘主義に基づいた愛の実践を称揚する信仰運動で、いつ終わるとも知れない植民地支配の下で生き延びている民衆が教会の中2010/10/15 宗文研懇話会3 に安住の場を求めたのに対して、既存の教会を批判し、超越的神との神秘的合一と隣人への愛を訴えようとした運動であった。李龍道の率いたこのリバイバルは、朝鮮教会の土着化の実験となるはずの信仰運動であった。だがそれは、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」の源流となる異端キリスト教となった。
「血分け教」の元祖李龍道(Lee,Yong-Do:1901〜1933)は、1901 年に黄海道の琴川郡に生まれたメゾジストの牧師で、苦難を受けたキリストの姿に従って、三一独立運動以降三度も投獄され、肺病で死に瀕しながら全国に伝道に赴いて、教派の別なく復興會を催して回った著名な復興師(リバイバリスト)であった[金光洙 1978:161-170,宋吉燮 1980:215-250,柳東植 1982:120-132;1987:100;1993:229-238]。1928 年、李龍道は奇岩絶壁の幾重にも折り重なる金剛山麓のペクチョン峰に登って入山修練し、10日間にわたる断食祈禱を行った末に、大いなる「能力(ヌンニョク)」を得てリバイバル運動を主導し始めた。復興會を通して李龍道は「イエスに狂え」と主張し、当時の朝鮮キリスト教界から「熱狂主義者」と呼ばれた。
李龍道は山中祈禱の折にイエスとひとつになるという神秘体験を得て、神との霊的合一という神秘主義の境地を、新郎に対する新婦の性愛という比喩で語った。神との愛の融合を通じての主との「血管的連結」を「血分け」と説くようになった李龍道は、自らをキリストと同一視するに至り、キリストの化身である自分との合一、即ち「霊體交換」を説くようになった[閔庚培 1975:152,姜문석・金일천 1991:314]。こうして李龍道は、朝鮮における「血分け教」の開祖となって、数名の信奉者とともに「平壌祈禱團」(6)を結成し、1932 年にその聖なる教会として同祈禱團を前身とする「イエス教會」を創設した[國際宗教問題研究所2000:17-29]。接神女劉明花が、「イエス曰く、龍道よ、汝が我の教會を建てよ」との神言を、憑依状態のうちに語ったのに従ってのことであった[閔庚培1972:291-294;1975:153;1993:440-442,卓明煥 1986:99,姜문석・金일천 1991:32,陳부생 1996:261-268,魚춘수 2009:165-179:194-198]。
李龍道の信仰運動は土着教団を生み出したほど強力なものであったが、当時の既存の教会からは異端視された。長老派の拠点であった黄海老會は、1932 年に禁足令を出して李龍道を処罰し、平壌教會もまた李龍道の復興會を断罪した。1933 年、李龍道は自らが所属していたメソジスト教會からも休職処分を言い渡され、同年 10月、持病の肺病により 33歳の若さで孤高に声をあげつつ世を去って行った[閔庚培 1972:287-294;1975:148-154;1993:434-444,南永煥 1988:185-197]。
1930 年代の平壌で「血分け教」を開いたもう一人の元祖に黄國柱(Hwang, Kuk-Ju:生没年不詳)がいた[金南植 1987:105-111,金동수 1994:80,陳부생 1996:269-272,崔중현 1999:103-136,魚춘수 2009:206-210]。北朝鮮の黄海道に生まれ、1935 年前後に間島(朝鮮と中国が国境を接している中国東北地区)に移民して行った黄國柱は、百日祈禱を通じて髭を長く伸ばし、イエスのように髪を長く伸ばしてうろつき回っては、「我こそはイエスの化身である」と説いて回った[金光洙 1978:171-173]。黄國柱は、自身の体にはイエス・キリストの血が分けもたれており、首もキリストのものと取り換えたと異言を語った。黄國柱が図們江を渡って間島から平壌へ姿を現すと、イエスの化身を一目見ようと無数の群衆が集まってきた。後に黄國柱がソウルへ向かうと、彼につき従っ2010/10/15 宗文研懇話会4 て来る者が、家庭を捨ててきた人妻や水腫をわずらった未婚の女性等60人にもおよんだ。
1930 年代後半、黄國柱はソウルの三角山(7)に「祈禱院」を作り[閔庚培 1982:296,異端似而非対策委員会 2007:114-119]、「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った[閔庚培 1982:399,卓明煥 1986:102,國際宗教問題研究所 2000:30-35]。
黄國柱の「血分け教」は、その後も 1940 年代の中頃まで勢力を誇り続けていた[閔庚培1972:295-300;1993:445-448]。
李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている[南永煥 1988:198-200]。「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945 年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式(8)を再現し[卓明煥 1978a;1978b]、「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。

(2)第二期(1950 年代):北朝鮮起源の新興宗教

1945 年の解放による、36年間におよんだ日本の植民地支配からの独立の喜びも束の間、1950 年 6月、今度は同胞相撃つ悲惨な朝鮮戦争が勃発する。1953年 7月、人類史上最も悲惨な戦争のひとつと言われる朝鮮戦争が終結したが、国土は荒廃を極め、不安と窮乏のただ中で人々は廃墟の町をさまよっていた。既存の秩序は爆撃された市街地のように崩壊し、荒廃だけが人々を支配した。このような社会の混乱はキリスト教会にも及んだ。荒廃した社会の秩序再建の支柱となるべき教会は分裂を繰り返し、無条件に独裁政権の支持に回った。混乱極まる社会に生きながら宗教的救いを求める民衆と、無能化した教会との断層から、復興師と呼ばれる一部牧師と平信徒によるリバイバリスムが沸き起こり、国の隅々にまで復興會運動がおよんでいった。
このような復興會運動を背景に、「祈禱院運動」呼ばれる 1950 年代の新興宗教集団の簇生が始まるのであるが、この時期に出現した「祈禱院」として、1954 年に羅雲夢長老(Na,Un-Mong:1914〜)によって創立された龍門山祈禱院と[金동수 1994:80,國際宗教問題研究所 2000:80-81,李進亀 2008:74-103,魚춘수 2009:226-230]、1955 年に朴泰善(Park, Tae-Sun:1917〜)によって設立された傳道館があげられる[柳東植 1987:144,姜문석・金일천 1991:197,金동수 1994:82-83,國際宗教問題研究所 2000:113-116,魚춘수 2009:231-235]。
龍門山祈禱院の設立者羅雲夢は、1914 年に現在の北朝鮮の平安北道博川に生まれ、日本、満州、シベリアを転々として帰国した後、1940 年に慶尚北道金川の龍門山に入山した。羅雲夢は元々仏教徒であったが、キリスト教に改宗した後に 1945 年の解放をむかえ、ソウルへ上京して長老となった。朝鮮戦争時、羅雲夢長老は共産軍に逮捕され危うく死ぬところだったが、九死に一生を得て生き残った。その後、羅雲夢長老はイエス・キリストにすべてを捧げ、修道生活を通して入神・異言・預言・幻想・震動・神癒等のありとあらゆる神秘体験を得るようになった。羅雲夢長老の説教は多くの病者を癒し、その集会時には多くの信者に入神と異言の恩賜が現れた。龍門山祈禱院は現在も龍門山下に 38 の分院を有2010/10/15 宗文研懇話会5 しており、韓国内の祈禱院数の約 3分の 2を占める龍門山系と呼ばれる祈禱院の系列を形づくっている[國際宗教問題研究所 2000:81]。
龍門山祈禱院は、その神秘主義的教理の故に韓国のキリスト教界では異端視される向きもあるものの、キリスト教的民族主義の精神が認められ、1970 年代以降の韓国キリスト教の復興につながる「祈禱院運動」として一応の評価を得てきた[卓明煥 1989:61,李進亀 2008:75-78]。だが、朴泰善派の方は、同時期に出現した世界基督教統一神霊協会等、先述の「血分け教」の流れをくむ韓国の新興宗教集団と関係しあうことになる[朱瑛欽 1975:132-136,金명희 1987:363-367,異端似而非対策委員会 2007:222-246]。
1950 年代には、朝鮮戦争の勃発によって北から南へ流れていった多数の「失郷民」が生み出されたが、このことは韓国のキリスト教界の教勢地図を大きく塗り替えることになった。解放前の朝鮮におけるキリスト教の拠点は、かつて東洋のエルサレムと言われていた平壌を擁する平安道であった。当時の平壌は、市内に数十メートルおきに教会が立ち並び、日曜日ともなれば街全体が教会の鐘の音でうずもれるほどであった。だが、朝鮮動乱後の南北分断により、北のキリスト教徒が南へ渡ってくることとなったため、解放時には 20万人であった韓国のプロテスタント信徒数は、1953 年の朝鮮戦争の終結時までに 50万人に急増した。韓国のキリスト教は南北分断の時が教勢拡大の一つのピークになっているが、それは、解放以前は北の側にあった朝鮮キリスト教の拠点が失われ、北に集中していたキリスト教徒が南へ流れてきたという民族の受難の歴史によるものであった。
この時期に出現した「祈禱院」には、このような南北分断が影を落としている。1945年の解放当時、平壌の神霊集団の一員であった丁得恩が、「南へ行って伝道せよ」という啓示を受けて韓国に渡り、1953 年、李龍道・黄國柱の神秘主義に傾倒した新興宗教集団の大聖心祈禱院を開いた。この大聖心祈禱院もまた、後に「血分け教」の新興宗教の群れに身を投じることになり[朱瑛欽 1975:132-136,國際宗教問題研究所 2000:48-54]、南北分断を境に、北を拠点としていた朝鮮の新興宗教も南へと流れてくることになった。
朝鮮動乱の終結後も「4.19」、「5.16」事件等の政治的混乱が続く中、1956 年から 1965年にかけて韓国全土で 49 の祈禱院(9)が出現した[卓明煥 1974a:319]。さらに 1966年から 1975 年の間に 146 に上る祈禱院が出現し、その数は 1975 年の時点で韓国内に存在していた祈禱院数の 69%を占めるものとなった[卓明煥 1974b:215;1975:28-29,1989:58]。これらの祈禱院には、社会からの脱出や隠世といった性格が色濃くみられるものが目立っており、混乱しきった社会からの避難所を求めて祈禱院に身を隠した信者等が、「祈禱院」を名乗る新興宗教に身を投じていった[卓明煥 1974.6:25-26; 1989:58]。あるいは、病気治療と称して信者を収容し、得体の知れない万病治療薬を飲ませる等して死亡させた末に暗埋葬したり、女性信者等と姦淫し財産を収奪するといった似而非宗教集団(カルト)のような祈禱院も後を絶たなかった[卓明煥 1972:144-150;1974.6:23-25;1974.9:52-58;1975:29-31;1989:60-62,李一男 1981:172-181]。また「祈
禱院」を名乗りながら、異教的入神やチョムジェンイ(占い師)の卜占のような預言祈禱を行い、巫堂(降神巫)の呪文のような異言を発して聖霊の恩賜を体験しようとする等の非キリスト教的信仰にふけっていたものも、この時期に多数出現しては消えていった[卓明煥 1974a:319;1975:29-35;1989:62-67,現代宗教社 1982:180-182]。朝鮮動乱2010/10/15 宗文研懇話会6 以後の韓国社会の混乱期に出現した「祈禱院」が、荒廃しきった社会からの逃避の場になるとともに、似而非宗教集団(カルト)の温床となり、「祈禱院運動」に禍根を残すこととなった。

(3)第三期(1970 年代):ペンテコステ教会の祈禱場

教会付属祈禱院の設立

朝鮮戦争終結後の社会の混乱の中で、1950 年代の韓国では「祈禱院」を名乗るキリスト教系新興宗教集団が群生した。一方、この時期の韓国おける教会の動きに目を転じると、1950 年代とは、福音派キリスト教を代表するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の韓国宣教が開始された時期で[純福音教育研究所 1989:149]、1958 年に信徒数 5 人の天幕(テント小屋)教会として出発し、後に 80 万人の信徒を擁する世界最大の教会となった汝矣島純福音中央教會(Yoido Full Gospel Church)の誕生に象徴される、韓国の教会復興の胎動が始まっていた時期であった[徐洸善 1984:9-232,純福音教育研究所 1989:205-209]。
韓国教会の福音化が本格化するのは、1970 年代に入ってからのソウルへの急激な人口集中を背景とした教会復興が成し遂げられてからのことであるが[渕上 1991:1-9,FUCHIGAMI 1992:18-43]、「聖霊の第三の波」という世界的なリバイバルの潮流に呼応しての韓国教会の福音化に伴って、「祈禱院」もまた大きく様変わりすることになった。それ以前の「祈禱院」といえば、キリスト教の名を借りた新興宗教が連想されていたが、
1970 年代以降、ペンテコステ派に属する福音派教会が急成長を遂げ、それらの教会が、信徒達の心霊復興のための道場として、「祈禱院」の名を冠した自前の祈禱場を設立するようになったことから[渕上 1993:112-113]、カルト宗教というかつてのイメージは薄れ、教会の付属祈禱場という新たな祈禱院像が定着してゆくこととなった。1970 年代以降の教会復興によって、こうした教会の付属祈禱院が増えてゆくのに伴って、韓国全土の祈禱院数(10)は着実に伸びてゆき、1975年には207か所、1978年には239か所[卓明煥 1989.7:
56-59]、そして 1982 年には 289か所を数えることになった[卓明煥 1982.10:176]。
汝矣島純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院に代表される教会の付属祈禱院は、既存の教会や教団が運営するものであるが、これらの祈禱院には、各人の所属する教会や教派の別なく自由に通えるようになっている。そのため、祈禱院では教派や教会の枠を超えた牧会者と信徒達の交流が実現され、そのことが献金の増収をもたらす等、教会の復興ひいては韓国キリスト教の成長に大いに寄与してきたと考えられる。祈禱院において開催される修練会等のイベントには、有名教会の牧師達が講師として招請され、信徒達は祈禱院に居ながらにして、スター牧師の「能力(ヌンニョク)」にあやかって各人の抱える問題の解決をはかることができる。ところが、そうした祈禱院の開放性によって、当初信徒達の心霊復興のための道場であった「祈禱院」は、神癒・異言・預言といった「能力(ヌンニョク)」の市場と化してゆき、「能力の恩賜」を求めて祈禱院詣でを行う信者層をターゲットとしたマーケッティングが展開される場となっていった[卓明煥 1974.9:58;1975:28-29;2010/10/15 宗文研懇話会7 1989:59,現代宗教社 1982:177-179,許일찬 1994:91-93,閔경설 1994:99-101]。

韓国のキリスト教における祈禱―聖霊との交霊

韓国のペンテコステ派キリスト教において、祈禱の占める位置は際だって大きく、祈禱は韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心をなす営みとなっている。韓国のキリスト教では、祈禱をすることによって諸願が成就し、霊的問題が解決され、カリスマ的な霊力が獲得されてそれに磨きをかけることができると信じられており、韓国のキリスト教徒は祈禱に余念がない。
韓国のキリスト教では、通常の礼拝の式次第に盛り込まれている祈禱の時間の他にも、早天祈禱会、徹夜祈禱会、禁食(断食)祈禱会等において祈禱が行われており、その種類は、異言祈禱、聖霊充満祈禱のように、聖霊との交霊や霊力の鍛錬のためになされるものから、神癒祈禱、預言祈禱、結婚祈禱、受験合格祈願祈禱、事業成功祈願祈禱、オリンピック勝利祈願祈禱、救国祈禱、民族統一祈願祈禱等々、現世利益の追求や所望の実現を願って行われるものに至るまで多岐にわたっている。
通常、韓国の教会では、復興會形式の祈禱會が定期的に催されているが、さらに祈禱に没頭しようとする場合、信者達は教会から祈禱院に赴いて行く。先に述べた 1970 年代の教会復興以降、教会の付属祈禱院の設立が相次いだが、京畿道坡州郡に位置する純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院(1974 年設立)のような、都市周辺の教会本部から遠く離れた山の中にある大型教会の付属祈禱院(11)が、「能力(ヌンニョク)」のある祈禱院とされて多くの信徒を引きつけている[鄭鎮弘 1984:126]。祈禱院を訪れる信徒は、ハナニム(하나님:キリスト教の神)(12)の「應答(ウンダプ)」をより早く受けるべく、その間 3日から 1週間ほど禁食(断食)(13)し、徹夜で祈禱に専念して心霊復興をはかる[現代宗教社 1989:68-73]。先の李龍道牧師が 1930 年代に山中祈禱をして「能力(ヌンニョク)」を授かり、リバイバルを成し遂げたことにも見られるように、山中に奥深く入って行って祈禱をすると心霊と交わることができるという、古代朝鮮の神仙思想に由来する入山修練の修行法が、韓国キリスト教にも取り入れられているのが見て取れる。
こういった韓国キリスト教の独特の祈禱とされるのは、「通聲祈禱(トンソンキド)」と呼ばれているもので、「主よ!アボジ・ハナニム(天にいまします我らの父よ)!!」と天も裂けんばかりに大声を張り上げ、異言を発するうちに神懸かりのようになって聖霊を受け、ハナニム(キリスト教の神)の「應答(ウンダプ)」を得ようとするシャーマニスティックなものである。教会の礼拝の式次第の中にも「通聲祈禱」の時間は何度も設けられており、韓国教会にシャーマニスティックな忘我境が繰り返し現出してくる。
朝鮮のキリスト教史に「通聲祈禱」が現れたのは、1907 年 1 月のある土曜日、ブレイアー(W.N.Blair)牧師が長老派とメソジストの合同査經會(14)の席上で、コリント前書の 11 章 27節を読み上げた時のことであった[閔庚培 1975:147]。ブレイアー牧師が、「我々はキリストの身体である」と説教し、「我が父よ!」と唱えるや、信徒達は強力に迫ってくる聖霊に圧倒されて、涙と感激の徹夜の祈りが幾日も続き、「通聲祈禱」の声が神秘的な余韻を残していった。この査經會はリバイバルの炎となって燃え上がり、同年の大復2010/10/15 宗文研懇話会8 興會運動につながっていった。このようにして、民族の宗教心の底に流れているシャーマニスティックな潜在意識に訴えかけながら、リバイバルは世界の教会史上稀にみる韓国のキリスト教化を達成する原動力となったのである。

韓国キリスト教の早天祈禱―祈禱仏教と仙教のキリスト教への流入

今日の韓国のキリスト教で行われている早天祈禱(새벽기도:セビョクキド)の起源は、韓国長老派の父と仰がれており、先の大復興會運動の主導者となった吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869〜1935)によって始められた早天祈禱會に遡るものである[金光洙 1974:141,趙載國 1998:212,許호익 2009:136-142]。1906 年、吉善宙牧師によって朝鮮初の早天祈禱會が行われたことが直接の契機となって、翌年の 1907 年に平壌のチャンデヒョン教會を中心に大復興會運動が起こり朝鮮全土に波及していったのであるが、この大復興會運動の時の一週間にわたる礼拝において、毎日夜明け前に教会で早天祈禱會が開かれたことにより、早天祈禱が朝鮮各地の教会に広がっていった。言うならば、大復興會運動を契機に朝鮮キリスト教の信仰形態が形成されることになったのであるが、韓国のキリスト教にのみ見られると言われる早天祈禱の起源を遡ると、大復興會運動の立役者吉善宙牧師の宗教遍歴に行き着く。
1869 年に現在の北朝鮮の平安南道に生まれた吉善宙は、少年時代に漢学を勉強してから、21歳の時入山し、3年間仏道に修道した後、朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教に入門した[許호익 2009:25-37]。吉善宙はその後有名な道士になったが、李ギルハム(GrahamLee)宣教師と出会ったことにより、キリスト教に改宗するに至った[金光洙 1974:137-146,宋基植 1993:70-77]。その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。
1907 年の大復興會運動によって朝鮮全土に広まり、今日の韓国の教会や祈禱院で行われている早天祈禱は、前述した仙教の早天祈禱とともに、朝鮮仏教の早天礼仏に由来するもので、その原型は、新羅時代から高麗時代にかけて、朝鮮の民衆の間で除災招福のための祈禱を中心に広まっていた祈禱仏教に見出される。朝鮮の仏教は一種の祈禱仏教で、日常生活での厳しい宗教的・倫理的責任を問うことよりは、祈禱による人生の諸問題の解決の方に信仰が傾いていた。今日の韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心となっている祈禱は、そうした朝鮮仏教の伝統に由来するもので、祈禱の対象に応じて細分化されている朝鮮仏教の祈禱の種類もまた、今日の韓国のキリスト教に流入しているのが見て取れる。朝鮮の祈禱仏教には、現世での福楽のための諸願成就を祈願する各種の祈禱が見受けられる。それらの祈禱には、子授け・延命長寿を祈願する七星祈禱、事業の成功と繁栄を祈願する山神祈禱、財福を祈願する獨聖祈禱、福楽・治病を祈願する觀音祈禱、治病と祈福を祈る竜
王祈禱、災難の除去と病魔の退散を祈願する神衆祈禱、冥福を祈る地蔵祈禱、死後の福楽を祈願する阿弥陀仏祈禱がある[李勲求 1991:126]。これらの祈禱は、現代の韓国の寺2010/10/15 宗文研懇話会9院でも、現世での諸願成就を祈願する祈禱會で行われており、「キリスト教が仏教の私設庵子と化したもの」と称される今日の「祈禱院」で行われている各種の祈禱と重なり合うものとなっている[卓明煥 1974.9:59]。

韓国キリスト教の巫俗化

近年の祈禱院においてみられる巫俗(シャーマニズム)化したキリスト教は、前述したような古代朝鮮の仙教と祈禱仏教が流入した、20世紀初頭の朝鮮キリスト教に由来するものであったと思われる。1970 年代以降、韓国のキリスト教界において「キリスト教の仏教私設庵子化運動」と称されるような「祈禱院運動」が発生してきた背景には、そうした宗教的伝統によって形成されてきた韓国の人々の意識形態が係わっていたと思われる[卓明煥 1974.9:50-59]。韓国の人々の宗教心の根底にあるのは、祈福信仰や接神に重きの置かれる巫俗信仰であり、神癒・恩賜・異言・預言・入神といった教会では叶えられない巫俗的要求の充足や神秘主義的接神体験を渇望する信徒達が、祈禱院に赴いて「祈禱院運動」に没入したことが、結果として韓国教会の復興を促し、聖霊の降臨を唱えるペンテコステ派キリスト教の急成長を成し遂げることになった。そして、そのようなキリスト教の巫俗化を促した 1970 年代の「祈禱院運動」が、シャーマン的女性牧会者が神癒を手がける「祈
禱院」の簇生につながっていったと思われる。

(4)第四期(1980 年代初頭〜1990 年代後半):女性牧会者による神癒

女性院長の登場

汝矣島純福音中央教會に代表される韓国のペンテコステ教会は、同教会の趙繩牧師(Cho, Yong-Gi:1936〜)のようなシャーマン的牧師による神癒を中心として、世界の宣教史上稀に見る驚異的急成長を成し遂げてきた[徐洸善 1984:9-232,渕上 1991:1-9,FUCHIGAMI:18-43]。1970 年代の韓国教会の急成長期にあって、神癒を担っていたのはそうしたシャーマン的な霊力を備えた大型教会の牧師達であった。ところが、ペンテコステ派キリスト教が韓国で急成長を遂げ、韓国教会が既成教団化してゆく 1980 年代にさしかかった頃から、教会周辺の「祈禱院」に「ハナニムから神癒の『能力(ヌンニョク)』を授かった」と語る女性達が出現し始め、それ以降、神癒の担い手が、教会の牧師から「祈禱院」の女性院長へと移ってゆくことになった[渕上 1993:118-119]。
その主な理由として、当時牧師達が教会で行っていた「鬼神祓い」(鬼神:怨恨を抱いた死者の霊や悪霊)による神癒が異端とみなされるケースが増え始め、そうした神癒を牧師達が敬遠するようになったことがあげられる。
1980 年代の初頭に教会の周辺に「祈禱院」が出現するようになったもうひとつの理由として、祈禱院を取り巻く当時の韓国の社会環境の変化が考えられる。前述した 1970 年代の韓国教会の復興期にあって、教会付属祈禱院の設立が相次いでいた頃は、人里離れた山中に祈禱院を建設するのが一般的であった。その一方で、1980 年代にさしかかった頃から、2010/10/15 宗文研懇話会10 ソウルを皮切りに都市交通網の整備が開始され、地下鉄の路線が拡張されてくると、立地条件のよい街中の方に祈禱院が開設されるようになり、雑居ビルの地下室、アパートやマンションの一室等、都会の雑踏にも「祈禱院」が目につくようになった[張운철 2004:
91-94]。都市周辺のこうした「祈禱院」の中には、「神癒福音祭壇」、「民族祭壇」、「救国祭壇」等を自称する、「祈禱祭壇」と称されていたものも見受けられた。神癒・入神・異言・預言を行うその類の「祈禱祭壇」は、当時名前が判っていたものだけでもソウルに 100 以上あったと推定されており[卓明煥 1975:33-34;1989:65,現代宗教社 1982:179]、それらの中から後に神癒に特化してゆく「祈禱院」が出現するようになった。
韓国教会の既成教団化に伴い、牧師が神癒から手を引くようになるのと時期を同じくして、教会の周辺で出現が相次ぐようになったこれらの「祈禱院」は、当初は、既存の教団や教会に所属していない私設神癒集団であった[卓明煥 1974.9:52;1975:34,1989:66,現代宗教社 1982:184,渕上 1993:118]。それらの「祈禱院」の院長の多くは、正規の神学教育を受けることなく[李玄 1883:318,閔경설 1994:99-103,許일찬
1994:93]、教団や教会の後ろ盾のない一牧会者として[卓明煥 1989:66]、あるいは既成教会の名目上の伝道師や勧士(クォンサ:年配の女性信者に与えられる一種の名誉職)として、「祈禱院」を公認する教会(15)とのゆるやかな協働関係の下で「神癒・恩賜集会」を開催して回っていた[渕上 1993:118-120;1994:232-253]。
こうした女性院長等が、教会の周辺で神癒の事役を行うようになった 1980 年代初頭から、韓国のキリスト教は「祈禱院」出現の第四期に入ってゆき、シャーマン的な女性院長による神癒が「祈禱院運動」の主軸をなしてゆくこととなった[渕上 1993:117-126]。
そういった「祈禱院」(16)が教会から公認されてゆくことによって、教団や教会に把握される祈禱院数(17)が大幅に伸びてゆき、1979 年は 123 であった祈禱院数(韓國福音文書研究會編『祈禱院住所録』掲載)が、1980 年には 253(基督教視聴覚研究所編『全國祈禱院住所録』掲載)に[李玄 1983:309]、1982 年には 285(1982 年 9月の國際宗教問題研究所の調査による)になり、1988 年の『クリスチャンライフ』誌に登録された祈禱院数は 374、1997 年の韓国国会報告資料に掲載された祈禱院数は 806 に達することとなった[盧봉옥 2000:70]。(参考までに、1998 年のセンサス集計による韓国のプロテスタント信徒数は 8,760,336 人(総人口比 19.7%)、教会数は 58,046、教団数は 168、教職者数は 98,905 人となっている[文化觀光部 1998:7])。
ハレルヤ祈禱院の「按手・按擦聖霊手術」 韓国のキリスト教史における第四期の「祈禱院」を代表するのは、1981 年 2 月にソウル市城北区で、金桂花(Kim,Gay-Hwa)院長牧師(後述)によって創立されたハレルヤ
祈禱院である[國際宗教問題研究所 2000:76-77,異端似而非対策委員会 2007:256-261](注:以下、金桂花氏の呼称を「院長」とする)。2010 年 10月現在、国内外に京畿道の抱川ハレルヤ祈禱院をはじめとする 8 か所の祈禱院支部、6 か所の地域教会、26の祈禱院傘下教会、ハレルヤ愛の家、ハレルヤ修養館、ハレルヤ禁食祈禱の家、ハレルヤ学舎の家、ハレルヤ考試院、ハレルヤ街の家、ハレルヤ天使の家、ハレルヤ所望の家、ハ2010/10/15 宗文研懇話会11 レルヤ幸福の家等の 24の祈禱院教育・福祉施設、ロサンゼルスを含む 28か所の集会地を保有し、12,000 人を超える教職者と信者を擁している同祈禱院は[國際宗教問題研究所2000:76,ハレルヤ祈禱院 HP(www.hallelu.net)]、韓国キリスト教界最大の単立祈禱院として今日までの「祈禱院運動」を牽引してきた。
ハレルヤ祈禱院の神癒集会は、ペンテコステ教会の復興會からその基本パターンを踏襲しており、復興會形式の礼拝に沿って、熱狂的雰囲気の中で金桂花院長の「神癒」が進められてゆく。同祈禱院の神癒集会では、骨髄炎、股関節異常、甲状腺喉癌、直腸癌、ヘルニア、瘤、腹水、皮膚病、火傷、交通事故の後遺症、子宮癌、リンパ腺腫瘍、肝癌、脳性麻痺、脳神経炎、脳腫瘍、喉癌等、ありとあらゆる不治の病や難病奇病が、金桂花院長の「按手・按擦聖霊手術」によって劇的に治療される。
ハレルヤ祈禱院の最大の支部である抱川ハレルヤ祈禱院には、1984 年 12月に同地から吹き出した、ハナニム(キリスト教の神)の神癒の力の漲る「能力の生水」という聖水が湧いており、水を汲んで帰る信徒達でいつもごったがえしている。同祈禱院の敷地内には禁食祈禱窟、各種の入院施設、運動施設等が立ち並んでいて、金桂花院長の神癒集会が行われない時も、(1990 年代当時)3,000 人を超える信徒や患者達が祈禱院に常住して信仰生活を送っている。また、ハレルヤ祈禱院には随所に人工的なキッチュが溢れているが、それらは同祈禱院の深層構造に組み込まれていて、病気を克服するための気力を患者等に植え付けている。
ハレルヤ祈禱院の各支部での「聖霊手術」を希望する者は、事前に 1カ月から 6カ月位祈禱院に「入院」して信仰生活を送り、気合いを入れて「聖霊手術」に臨まなければならない。同祈禱院への「入院」に際しては、既存の教会に信徒登録していなければならず、教会に登録しないと「聖霊手術」は受けられない(注(15)参照)。また、病院治療が可能な者は「聖霊手術」は受け付けないことが、同祈禱院の決まりとなっている。
ハレルヤ祈禱院の神癒集会に参加する者は、患者も観衆も前の晩から会場にこもって、徹夜祈禱に引き続いて早天祈禱を行う。神癒集会の開始時間が近づいてくると、金桂花院長の「聖霊手術」の前座として、同祈禱院専属の福音歌手による演歌調にアレンジされた福音聖歌や、パンソリ(韓国の伝統芸能)の節回しでの福音聖歌のメドレー、韓国の民族舞踊風の「聖霊舞」が始まる。前夜からの徹夜祈禱によるシャーマニスティックな忘我境の後の、しばらくの間のエンターティンメントが繰り広げられ、シャーマニスティックな霊的覚醒とエンターティンメントがセットになって礼拝に盛り込まれているというペンテコステ教会の特徴が、ここハレルヤ祈禱院においても見受けられる。しばしのエンターティンメントの後、会場が福音聖歌で盛り上がってきたところに金桂花院長が現れ、院長の祈禱でもって神癒集会の開始が告げられる。
神癒集会の礼拝は、ペンテコステ教会のそれと同様、復興會の形式に沿って福音聖歌の大合唱とエクスタティックな舞踏、通聲祈禱の繰り返しのうちに、熱狂的な雰囲気の中で進められてゆく。何百何千人もの信者が歌い踊り熱狂する中、病人が難病・奇病にむしばまれた患部を観衆の目の前に晒してステージに上がってくると、「按手・按擦聖霊手術」の始まりである。
派手なドレスを身にまとった金桂花院長が、信者達の福音聖歌の大合唱に合わせて踊り2010/10/15 宗文研懇話会12 ながら、病人の患部を力まかせに数回たたく。院長の手のひらには、目には見えないけれど聖霊の火が燃えていると言われる。院長の手のひらと病人の患部は、たちまち血で真っ赤になり、ステージは血の海となる。患者はこの間、どんなに痛くても絶対に痛いと言わないように言い渡されており、金桂花院長から「聖霊手術」をほどこされる間中、「アーメン!ハレルヤ!!」、「アボジ(天にいまします我らの父)、ありがとう!」と絶叫し続けなければならない。「アーメン!ハレルヤ!」と叫んで笑うと痛くないとのことで、笑う者は癒され、笑っている間に病魔が消え失せてゆき、笑いと喜びのうちに多くの患者の霊的問題が解決される奇蹟が起こる。金桂花院長の手のひらが当たった所から患者の体に穴があき、そこから患者の体をむしばんでいた病巣が血の塊となって体外に取り出され、観衆に血の塊が披露される。長年治らなかった難病・奇病が、神癒の奇蹟でこの瞬間に治ったことを金桂花院長が観衆に告げ、場内は興奮のるつぼと化す。後日、この患者は、神癒集会時にハレルヤ祈禱院の「聖霊手術」によって病気が治ったことの証しを行うことになる。
金桂花院長によれば、「聖霊手術」の成敗(18)は、その人の信仰心にかかっている。病気を治す瞬間だけハナニムを信じても駄目で、御言葉が継続的にその人に植え付けられていかなければ、完治したものも途中で駄目になる。ハナニムに対する信仰心が足りなかったり、手術に対して疑いを持っていたりすると、「聖霊手術」で取りだしたはずの病巣が元の所に戻ったり、さらには「聖霊手術」成功後に死んだりすることもあるという[渕上 1993:119-121;1997:165-177]。
金桂花院長の半生と「祈禱院運動」 ハレルヤ祈禱院の金桂花院長の「聖霊手術」は、1980年代から 1990 年代にかけて隆盛を極めた第四期「祈禱院」の神癒の代表格となって、韓国キリスト教の「祈禱院運動」の一時代を築いてきた。金桂花院長がハナニムから「聖霊手術」の「神癒の恩賜」を授かるまでの信仰歴は、ハレルヤ祈禱院での証しにおいて語られてきた同院長の生活史とともにあざなわれてきた[金桂花 1989:18-151;1992]。
金桂花院長は 1947 年に大韓民国全羅北道沃溝郡に生まれ[國際宗教問題研究所2000:76-77]、23 歳の時(報告者注:1970 年)、現在ハレルヤ祈禱院の執事の職に就いている李仁柱氏のもとに嫁いで行き、夫の故郷である忠清道のオトンニ村で結婚生活を送っていた。金桂花院長夫婦は取り嫁取り婿で、婚家での人間関係はうまくいっていたが、いつになっても胎氣(妊娠の兆候)が訪れないことを、金桂花院長は常々気に病んでいた。
李家は代々跡取りに恵まれない家系で、姑は子供を産めず、そのうえ舅が後継ぎを得るための後妻を何人迎えても誰も妊娠しなかったため、甥である金桂花院長の夫を養子に迎えて家を継がせた。そのため、嫁である金桂花院長に対する跡取り出産への期待は、結婚当初から大変なものであった。
金桂花院長は元々イエス・キリストを信じる人間ではなく、木魚の音と線香のにおいの中で少女時代を過ごし、圓佛教(韓国の新宗教教団)の中学・高校を出て、仏教修練過程を修了していた[現代宗教社 1983:68]。結婚後、夫の生母が教会の勧士(クォンサ:前述)であったことにより、義母が奉仕するオトンニ教会の日曜礼拝に退屈しのぎに夫と2010/10/15 宗文研懇話会13一緒に出席していたが、金桂花院長はその頃はキリスト教には別に関心はなく、いつもひやかし半分で教会に行っていただけだった。
結婚して 2 年、3 年と経っても依然妊娠の気配がなく、焦りが生じて、結婚 3 年目のある日の早天祈禱会の折に、金桂花院長はオトンニ教会に子授け祈願に行き、「ハナニム・アボジ!、子供を授けてくれるのですか!、どうなのですか!」と詰めよった。ハナニムから「應答(ウンダプ)」があるかどうか考える余裕もなく、ただ無茶苦茶に叫んだだけの祈禱が聞き入れてもらえ、金桂花院長に待ちに待った胎氣が訪れた。夫の仕事の関係で妊娠3・4 ヶ月目にソウルに引っ越した後、金桂花院長は玉のような男児を出産し(注:1973
年)、また続けて女児を 2人産んで、一家で幸せな日々を過ごしていた。
ところが、待ちに待った子供で自分の人生の全てであった息子が 7 歳の時(注:1980年)、煮えたぎる湯の釜に落ちて大火傷を負い、金桂花院長の全人生が転覆した。金桂花院長は、この時はまだハナニムを知らなかった。苦しがる息子を抱えて病院を転々とし、ありとあらゆる手を尽くしたにも拘らず、火傷をした所からばい菌が入って破傷風になって敗血症にかかってしまい、25日間苦しんだ末に息子は死んでしまった。跡取り息子を死なせたことで、親類縁者等から責め立てられた金桂花院長は、自分も死ななければならないと気も狂わんばかりに嘆き悲しんでいた。
息子を埋めて 15 日たった時のこと、金桂花院長は、自分でも知らないうちに、どうした訳か腕利きの巫堂(ムダン:韓国のシャーマン)の家に行っていた。その巫堂から、「お宅には死者が 3人いる。お宅で初喪(チョサン:折れ口、人の死に目)が 3回起こる」と言われた。息子が死んだとなると、あと 2人は誰だろうか。息子が煮え湯に落ちる 1ヶ月前に舅が死んでいたので、あと 1人ということになるが、死ぬのは一家の主であるとのことだった。となると今度は夫が死ぬことになり、息子を失くした上夫も失い、三代続けて跡取りが死ぬことになる。何とか厄を逃れることはできないものかと、金桂花院長が巫堂にすがったところ、藁でかかしをこしらえて川の水に浮かべ、服を着せて焼いて船を流し、どこかへ行ってクッ(韓国巫俗の巫儀)をしなければならないとのことであった。その費用として当時のお金で 50 万ウォン必要で、契約金として巫堂に 5 万ウォンを支払わねばならなかった。夫を失うことを思えばお金にはかえられなかったし、またそれまで息子の命を救いたい一心で、一回の治療に何 10 万ウォンというお金をはたき続けてきて金銭感覚が麻痺していたので、5万ウォン位は何ともなかった。
金桂花院長がお金を取りに家に帰ったところ、壁にイエス様の肖像画がかかっていた。
「イエス様が私を見つめている!」。目を疑って肖像画をもう一度見たら、確かにイエス様が金桂花院長を見つめていて、ふたつの目が生きていて動いていた。
これ以上耐えられず、巫堂の家に走ってゆき巫堂に怒鳴った。騙されたと思った。巫堂に鬼神(クウィシン:この世に怨恨を抱いたまま死んだ者の霊)を怒らせると大ごとだと言われたが、子供を失った今となってはこれ以上の不幸はあるものかと思って、巫堂の言うことを聞き入れなかった。
息子が死んで 1ヶ月経ったとき、今度こそ死のうと思って、金桂花院長が薬を飲もうとした瞬間、天から大きな声が聞こえてきた。
「お前は何が欲しいんだ!」。金桂花院長がハナニムと出会った瞬間のことだった。何も2010/10/15 宗文研懇話会14 見えないけれど、確かに大きな声が聞こえてきた。自分でも知らないうちに、「赤ちゃんが欲しい!」という答えが口を突いて出てきた。その瞬間、「ここにある!」という声と一緒に手の中に色々な産着が降ってきた。金桂花院長の心の中に、なんとも言い様のない喜びが湧いてきた。「他に欲しい物はないか!」「これで十分です」 「そんなことはない」と天の声が言った。「私がお前に大きな喜びをあげよう!」という声と一緒に天から大きな袋が投下され、金桂花院長の目の前に落ちてきた。中を見ると拳のように大きななつめが一杯入っていた。そのなつめの袋がころころ転がって行くので、転がる方について行ったら、なつめの袋は門の中に入っていった。金桂花院長がその中に入ってみると、何だかこの世のものではない、こうこうとまばゆいばかりに輝く光に満ちあふれていた。なつめの袋を服の中にしまうと、その瞬間から言葉では言い表せない喜びが湧いてきた。
翌日、昨夜のなつめの袋が何だったのか、金桂花院長がハナニムに聞いてみると、「結婚するとき舅姑がなつめを投げてくれただろう。子供をたくさん産めということだ。これからは福音で霊の子供をたくさん産め」ということだった。伝道者の使命が与えられ、痛くないように診察し治療する仕事を金桂花院長に任せようということだった。
それからというもの、ハナニムから授かった「神癒の能力」による奇蹟の病気治しに明け暮れる日々が始まる。金桂花院長の「神癒祈禱」と按手により、病める人々がたちまち癒され、噂を聞きつけた人々が押し掛けて来て、金桂花院長は「伝道師」と呼ばれるようになる。ところがそれまで一番の理解者であった夫から、最愛の息子を失って気が狂ったとそしられ、次第に夫と気まずくなってゆくが、自分はハナニムの僕であるという一念で病気治しに専念する。
金桂花院長の「神癒」の方法は、それまで基本的にはイエス・キリストの御名による神癒祈禱と按手であったが、ある時、「お前は鍼治療ができるではないか。」というハナニムの声が聞こえてきた。その声の意味は翌日わかった。近所の婦人が、食もたれを治すおばさんの家を教えて欲しいと言って院長の所にやってきた。金桂花院長はその家のことをよく知っており、自分でも時々利用していて多くの人に紹介していた。鍼治療に関しては、以前ちょっと金儲けでもしてみようかと思って、鍼の専門学校に一日か二日通っただけであったが、その時、我知らず、鍼をうってあげるからいらっしゃいと言っていた。鍼をうつごとに心の中で「アーメン!」と叫んで祈禱していた。すると 10 年患っていた食もたれが治っており、思わぬことから鍼による福音の伝播が始まった。
金桂花院長は、患者の手をとって祈禱をすると何の病気かがわかるというハナニムの恩賜をたまわった。肝臓癌、胃癌、脳癌、骨髄癌等の各種の癌、パーキンソン氏病、ウィルソン氏病、筋肉無力症、各種の皮膚病等々医学博士も顔負けするほどだった。
ハナニムは伝道する金桂花院長にさらなる知恵と恩賜を与えてくれた。透視の恩賜で伝道する相手に祈禱をすると、その人に関して知らなければならないことがわかるようになった。透視の能力を駆使して病気を治す院長を、人々は巫堂(韓国の降神巫)にたとえた。
金桂花院長が鍼をさす度に「アーメン!」と言うように患者に指示し、主を迎接する心の扉を開いてゆく。鍼を全部さすと聖書を開く。聖書の御言葉が入ると治療の効果があらわれる…。2010/10/15 宗文研懇話会15 ハナニムは金桂花院長の信仰心をいろいろなことで試してみながら、その度に院長に新たな「神癒の恩賜」を与えた。鍼による「神癒の恩賜」を金桂花院長に与えたハナニムは、続いて院長のハナニムに対する従順、そして謙遜を試しながら金桂花院長を鍛え上げ、「神癒」の基礎を固めてくれた。いろいろ試されるなかで、何よりも大切なものが愛だった。患者に愛情がもてるかどうか試されてから、金桂花院長に「神癒の能力(ヌンニョク)」が与えられた。
金桂花院長が神癒集會を開いていた時、半身不随の 50 歳の中風病患者が連れて来られた。その患者たるや糞尿にまみれた生きる屍も同然で、とても人間とは思えなかった。患者を見つめる金桂花院長の胸は、ハナニムの限りない哀れみと涙で一杯になった。金桂花院長は患者を手厚く介護し、祈禱をして患者を送りだした。それからまた、金桂花院長の所に中風患者が連れて来られた。患者を見つめていたところ、金桂花院長は突然患者の足に手を当てていた。その瞬間、「あっ、熱い」と言って患者が院長の手を払いのけた。金桂花院長の手に火がついた時のことだった。患者の足が黒く焼けていた。
「これは誰の技ですか?主よ、あなたは誰ですか?」
「私はイエス。汝のために十字架にかかって血を流したイエスだ。」
その日より、ハナニムから金桂花院長に患者の病巣の塊を取り出す「聖霊手術」の火が与えられた。金桂花院長の按手を受けた所に、ありとあらゆる病気の要素が集まってきて血となって溢れ出て、病気のもとが塊となって出てくる奇蹟が起こった。「神癒」を始めて8年目にして(注:1989 年)、ハナニムが金桂花院長に聞かせてくれ、見せてくれ、知らしめてくれた「聖霊手術」の恩賜であった[渕上 1993:121-126]。
金桂花院長の神癒歴を同院長の生活史に照らして跡づけてみると、金桂花院長がハレルヤ祈禱院を創立し、ハナニムから「神癒の能力」が与えられて「聖霊手術」を手がけるようになったいきさつには、韓国のキリスト教が巫俗等の民俗宗教や他の伝統宗教と習合し、シャーマニズム化していった過程が集約されていることがうかがわれる。そして、金桂花院長がキリスト教徒になっていった過程には、韓国の女性に対する儒教規範の圧迫、院長の婚家での二度にわたる父系血統の断絶、韓国におけるキリスト教と祖先崇拝の相克、キリスト教信仰と巫俗信仰との葛藤、巫堂との確執、巫堂との絶縁とハナニムへの帰依、韓国の民間療法から「神癒」への転換、「神癒祈禱」から「聖霊手術」の「神癒の能力(ヌンニョク)」へといった、いわば朝鮮時代から現代までの韓国の民俗宗教とキリスト教の流れが集約されているのが見て取れる。金桂花院長が主の導きを受けた 1980 年、「祈禱院」の第四の時代が幕を開け、「祈禱院運動」が新たな段階に入って行こうとしていたと思われる。

ハレルヤ祈禱院の行路

1981 年 2 月に金桂花院長が「神癒の役事」を開始して以来、ハレルヤ祈禱院は教勢拡大を遂げ続け、本節の冒頭で述べたような莫大な資産を有する巨大組織に膨れ上がっていった。ハレルヤ祈禱院での「神癒」を続ける傍ら、金桂花院長は 1986 年に全羅北道全州市内のイエス教長老會(聯合側)総會神學校を卒業し、1997 年に牧師按手を受けて「院長牧師」となった。だがその間も、韓国のキリスト教界ではハレルヤ祈禱院の「神癒」に対2010/10/15 宗文研懇話会16 する疑念が絶えず、1991 年にイエス教高神側が、1993 年に統合側が、各々の総会で同祈禱院を「不健全祈禱院」と規定して、ハレルヤ祈禱院の集会への参与禁止令を議決した。
そして 2000 年 12月 4日、韓國基督教総聯合會が同日付けでハレルヤ祈禱院を異端と規定するにいたった[國際宗教問題研究所 2000:77-78]。
金桂花院長が「神癒の事役」を開始してから今日に至るまで、ハレルヤ祈禱院に対しては、キリスト教界のみならずマスコミからも度々疑惑が提起されてきた。1993 年 3 月に韓国文化放送局の『PD手帳』が同祈禱院での梅毒感染疑惑を報じた「MBC事件」を始めとする数々の紛争によって、マスコミとハレルヤ祈禱院との対立が深まっていき、1997年に金桂花院長の親戚の元使命者によって、ハレルヤ祈禱院の内幕を暴いた告発本が刊行
されるに及んだ[金정희 1997:23-199]。キリスト教界とマスコミからの絶えざる批判の中で、牧師按手を受け、1997年にはれて「牧師」となった金桂花院長は、自身に対する批判勢力を封じ込め、ハレルヤ祈禱院を「教会」に発展させることを目論んで、1998 年10月に「ハレルヤ総会」という教団組織を設立し、自らの権力と財力を結集して、全国各地の系列教会を同総会の傘下に組み入れていった[ハレルヤ祈禱院 HP(同上)2010:祈禱院沿革]。
ハレルヤ祈禱院に対する世間の批判に抗して、これまで自身が手に入れてきた地位と権力を武器に、ひたすら祈禱院の教勢拡大を図ってきた金桂花院長であったが、いつしかその「神癒の能力」には陰りが見え始めていた。1990 年代後半以降の韓国の本格的な経済発展によって、ハレルヤ祈禱院の設立当初とは比較にならないほど医療保険制度が発達した結果、「神癒」全般に対する社会の関心が低下してゆくこととなった。また、韓国が現在よりもはるかに貧しかった 1980 年代当時、ハレルヤ祈禱院が非公式に担っていた、病人、老人、障害者等の社会的弱者の「収容所」としての役割が、韓国社会が豊かになった今となってはもう通用しなくなり、同祈禱院に対する社会の目は一段と厳しいものになっている。金桂花院長の代名詞であった「聖霊手術」に、今ではかつてのような霊力は見られなくなっており、「神癒の能力」を取り戻そうと図る金桂花院長が、1990 年代末より済州島の巫堂のところに密かに通い始めていたことも判ってきた[金정희 1997:31-34]。
教派間のあくなき対立や際限のない教団の分裂等、これまで「祈禱院」と連携してきた教会を取り巻くキリスト教界の構造的問題点が浮き彫りになり、韓国のキリスト教の教勢が頭打ちになっている現在、第四期「祈禱院運動」は終りにさしかかっており、「祈禱院」の全盛時代を築いたハレルヤ祈禱院の「神癒」も、終焉の日を迎えようとしているようである。

おわりに:キリスト教の土着化と「祈禱院運動」

本報告において、韓民族の激動の歴史を背景に韓国・朝鮮のキリスト教史に出現してきた「祈禱院」の変遷過程を、「祈禱院運動」を担ったキリスト者の人生に関わってきた諸宗教の考察を交えて跡づけてきた。同国のキリスト教史において、「祈禱院」の出現は何を意味しており、「祈禱院運動」は韓国・朝鮮のキリスト教のどのような性格を示唆してきたのであろうか。2010/10/15 宗文研懇話会17 「祈禱院」とは、韓国・朝鮮のキリスト教の神とされる「ハナニム」に導かれた者の霊感を通して、同国のキリスト教の中にその姿を現してきたものであった。韓国・朝鮮のキリスト教史において「祈禱院」で生じてきたことは、後日にあっても同国のキリスト教の周辺で、絶え間なく繰り返されていることである。また「祈禱院運動」には、キリスト教が韓国に定着してゆく過程で直面する問題が、異端キリスト教、似而非新興宗教(カルト)、さらにはシャーマニズム化するキリスト教に集約されて示されており、それらの行き着く先が暗示されているように思われる。1970 年代に「韓国教会の宣教奇蹟」と謳われたペンテコステ教会の驚異的復興が実現された後、危険な異端の臭いが漂い、とかく怪しげな似而非新興宗教のイメージがつきまとっていた「祈禱院」が、1980 年代に教会の周辺で異端キリスト教を思わせる「神癒」となって再び生起し、隆盛を極めたことをどのように理解すべきであろうか。神秘主義的異端キリスト教も、北朝鮮由来の似而非新興宗教も、はてはシャーマニズム化するキリスト教も、それらのすべてが、韓国の地にキリスト教が土着化していく過程で直面せざるを得ない宿命のようなものなのであろうか。
韓国のキリスト教は、激動の民族史を背景に、朝鮮民族の民俗宗教をひきずりながら、「祈禱院」をフロンティアとしてその信仰形態を作り上げてきた。韓国のキリスト教が今なお引きずっている問題も、今後直面する事態も、キリスト教のフロンティアである「祈禱院」において先取りされ、再現されてゆくものと思われる。


(1) 朝鮮にプロテスタントが伝来したのは 1885 年であったが、異端キリスト教が発生し
始めたのは 1910 年代に入ってからのことであった。それ以降、朝鮮キリスト教史に
現れてくる異端キリスト教には、@1910 年から 1920 年代までの、教権主義に対する
反発として現れたもの、A本稿で取り上げる、1930 年代の神秘主義運動として現れた
もの、B異端キリスト教への転換をもくろむ偽のキリスト教の三つの類型が見られる
[姜문석・金일천 1991:142]。
(2) 日本を意識する宗教学者のグループを除けば、韓国では一般に日本でいう「新宗教」
は「新興宗教」と称されており、カルト宗教という意味の込められた「似而非(サイ
ビ)宗教」の名で呼ばれることもある。
(3) 朝鮮の地にキリスト教が伝来したのは、カトリックが 1784 年、プロテスタントが
1885 年のことであった[柳東植 1975:年表,趙載國 1998:200-201]。本報告で
韓国のキリスト教史を取り上げるにあたって、朝鮮時代と日本植民地時代のキリスト
教にも議論が及んでくる。本報告では、日本植民地時代のこと、および朝鮮時代から
解放後の韓国に至る歴史的・文化的な概念を指す場合は「朝鮮」としている。
(4) 韓国のシャーマニズムは現地の固有語では「巫俗(ムソク)」というが、アメリカ人2010/10/15 宗文研懇話会
18
宣教師のアンダーウッド(Horance G. Underwood,1859〜1916)が、1910 年に“The
Religion of Eastern Asia”の第 3章において、巫俗信仰のことを「シャーマニズム」
(‘The Shamanism of Korea’)と称したのが、朝鮮巫俗がシャーマニズムと言われ
るようになった端緒であるという[崔吉城 1978:137-138]。
(5) 1933 年、文鮮明が 10 代の頃、「血分け教」の始祖李龍道の「イエス教會」に出入り
していた[卓明煥 1992:52]。黄國柱の弟子の中に、後に文鮮明の弟子となった女
性信者の丁得恩等がいた[卓明煥 1986:103]。
(6) 「祈禱院」の初期の名称は、「祈禱處」、「修養館」、「祈禱團」、「修道院」といい、そこ
では木の根や岩等の自然物のそばに小屋を立てて祈禱生活を営む信徒達の姿が見られ
た。そうした祈禱場として、日本植民地時代の 1920 年代に北朝鮮地域にあった「山城
祈禱處」、「金剛山祈禱處」、「オゴドン祈禱處」等が有名であった[盧봉옥 2005:44,47]。
(7) ソウルの北漢山系に連なる三角山には、キリスト教、仏教、巫俗、新興宗教等、諸宗
教の修行場がひしめきあっている。三角山は朝鮮新興宗教のメッカである忠清南道の
鶏龍山に例えられて、「ソウルの鶏龍山」とも言われており、「血分け教」の開祖の黄
國柱が 1930 年代に「祈禱院」を構えた山としても知られている[卓明煥 1974b:
215;1974.9:51;1975:27;1986:102;1989.7:56]。三角山には 1969 年の時点
で 37 の祈禱院があったと報告されており、現在でも多数の教会付属祈禱院や私設祈
禱院が存在する、ソウル地域の祈禱院のメッカとなっている[卓明煥 1989:56-67]。
(8) 「血分け教」で豚の頭を拝み、巫女(韓国のシャーマン)と雑神(巫俗で祭られる神々)
を祭る、「血分け師」が仏教に帰依し、大刹を巡訪し仏陀に誠心を捧げ、萬神(巫女の
尊称)に師事する、「御成婚」と称した「冥婚」を行う等々[卓明煥 1978a;1978b]。
(9) 國際宗教問題研究所が設立年代別に韓国内の祈禱院数を調査したところ、1945 年以
前に設立されたものは 2、1945 年〜1955 年のものは 2、1956 年〜1965 年のものは
49、1966 年〜1975 年のものは 146、1982 年のものは 289で、1989 年現在の韓国内
の祈禱院数は 360に達していた[現代宗教社 1982.10:176,卓明煥 1989:58-59]。
(10) 1975年の祈禱院数は新興宗教問題研究所の調査によるもの、1978 年の祈禱院数は当
時の韓国内務部の祈禱院寺刹庵寺調査資料によるもの、1983 年の祈禱院数は『1989
年教會住所録』の付録の祈禱院一覧表を参考にしたものである[卓明煥 1989:57]。
(11) その他の代表的なものとして、ソウル永楽教会の永楽祈禱院、大聖教會の大聖修養館、
ソウル中央教会のエルサレム祈禱院、城北教會のハンオル山祈禱院等がある。
(12) キリスト教が朝鮮に伝来した時、中国を通して入ってきたカトリックは漢字語で「天2010/10/15 宗文研懇話会
19
主教」と翻訳され、キリスト教の神は、朝鮮民族が古来より信じ続けてきた天神を意
味する「ハヌニム」という語に訳された。それから百年後にプロテスタントが伝来し
た時、キリスト教の神がハングルの固有語である「ハナニム」という言葉に訳され、
朝鮮民族の古来からの神観念が唯一神であるキリストを受容する素地となって、朝鮮
の地にキリスト教が受け入れられていった。朝鮮民族の伝統宗教がキリスト教によっ
て新しく蘇り、キリスト教が民族の伝統宗教につながっていく契機となったのである
[柳東植 1987:52]。
(13) 禁食(断食)祈禱をすると、速達を受け取るごとく「應答(ウンダプ)」が速く得ら
れると考えられている[金상수 2004:79]。
(14) 査經會とは聖書研究会を兼ねた一種のリバイバル・ミーティングで、聖書の一節を暗
誦し復唱してゆくうちにリバイバルの熱狂に導かれる[琴章泰・柳東植 1986:218]。
(15) こうした教会には、祈禱院と協力して登録信者を獲得することを目論む大韓イエス教
長老會の群小教会が多い。また信徒の中にも、祈禱院に通いたいがためにこうした群
小教会に便宜的に登録している者がみられる。1998 年現在、韓国のプロテスタント
には 168 の教団と 58,046 の教会があり[文化観光部 1998:7]、教団間の対立故
にキリスト教界全体を統括する機構が不在となっている。そうした中で、祈禱院を教
勢拡張に利用するために問題のある所をも公認する教会があっても、それらの末端の
教会にまで教団の監視の目が行き届かないといった韓国のキリスト教界の構造的な
問題が、「不健全祈禱院」を生みだす原因になっている[月刊牧會編集部1984:22-37]。
(16) ハレルヤ祈禱院の他、そうした祈禱院(所在地、創立年)として、太白祈禱院(現
「所願の港」祈禱院、江原道寧月郡、1978 年)、大福祈禱院(慶州市、1990 年)、
大邱ミラル祈禱院(大邱市、1993 年)、サランの祈禱院(ソウル市東大門区、1991
年)、世界神癒福音宣教会(京畿道光明市、1989 年)等がある[渕上 1994:232-253,
國際宗教問題研究所 2000:75-85,張운철 2004:90-94,具수현 2004:87-88]。
(17) 韓国の現行法には、祈禱院の設立に際しての申告制度や登録制度が存在しておらず、
国内に現存するすべての祈禱院を把握することは事実上不可能である。現在公式に
把握されていない祈禱院まで含めると、その数は 1,000 を超えると推定されている
[盧봉옥 2005:44,51]。
(18) 報告者が 1989 年から 1997 年にかけて抱川ハレルヤ祈禱院で「聖霊手術」を受けた
人達の追跡調査を行ったところ、その大半が手術後数か月以内に再発するか死亡して
いた。なお極少数ながら「聖霊手術」によって治った者も、女装癖がつく等のアブノ
ーマルとなって、病気が治ったら祈禱院から一生出られなくなることが明らかになっ
た[渕上 1997:165-177]。2010/10/15 宗文研懇話会
20
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以上

出典:http://nirc.ciao.jp/files/fuchigami.pdf#search='%E7%BE%85%E9%9B%B2%E5%A4%A2'


如何だっただろうか?

韓国の宗教はキリスト教であれ、なんであれ、シャーマン信仰と密接に結びついているのである。

なので、清平の祈祷院もその類ではなかろうか?

とすると、人類のメシアというのも信憑性に欠けて来ると思われるのだが。如何だろうか?

今起こっている奇妙な出来事も韓国の宗教ならば、なんら不思議でもなんでもないのだ。韓国ではそこらじゅうで行っているからだ。

現役のかたは、今が見つめなおすチャンスかもしれない。

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上記の論文が何かの一助になれば幸いである。
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